大正元年~平成3年
広島県賀茂郡広町(現在の呉市広)出身。
速水御舟の門に入り、御舟没後は小林古径に師事。
1938年、岩橋英遠らと歴程美術協会を結成、
丸木位里らと日本画の前衛表現を推し進める。
戦後は郷里にとどまり、孤高の画業を貫く。
2012年から2013年にかけて、
練馬区立美術館と広島県立美術館で大規模な回顧展が開催され、
それにあわせて画文集「独坐の宴」が刊行される。
アコーディオニストゆうこは玉樹の娘にあたる。

船田辰子提供

父が26歳頃に描いた作品と言います。父は旧制中学の頃小説家になりたく、文字を書いてばかりだったと言っていました。私が入学していた大学に、たまたま父の旧制中学の同窓が教授でいらっしゃって、中学時代に書いた父の文集を、わざわざ私に見せて下さった事がありました。いっしょに父の文章をたどっていられた教授が言われました。「船田君は、実に書くのが好きでね。いつも何か読んだり書いたりしてたんだよ。でも、いつも彼の文章を読むと色が出てくるんだよね。色に関して文中でそれは神経質に文章に組み込んでるんだね。それがとても印象的でね。だから画家になったのも理解できるんだけどね。ほら、この文集の中の、ここもたくさんの色目で表現してるでしょう。そのせいかもしれないけど、お父さんの描いた花の夕とか鮮やかな色の屏風を見ると、僕は彼の文章や小説を読んでいるように感じるんだよ」もう、その教授も亡くなられて、その言葉だけが私の心に残ったままになっています。若い日に描かれた花の夕は父の長い物語。いえ、父の画家としての長い物語のはじまり・・と思ってしまいます。

呉市広町に住んでいた時も、広島市に移り住んでからも、我が家の玄関を開けると、その正面にいつもこの利休の絵がありました。私が結婚して家を出る時まで、我が家の玄関には、私が生まれてからずっと利休がありました。無表情であるにもかかわらず、どんな日も、私を玄関で迎えてくれた絵です。我が家は、猫をよく飼うことがありました。猫は、一度も玄関先の利休の絵で爪をとぐこともなく、父の仕事場の屏風を横切り汚すこともありませんでした。それを父はすこぶる感心しながら、「僕の絵を理解してくれてる賢い猫だ」と、私に本気で語っていました。

弘願寺は、父の眠る菩提寺です。呉市下蒲刈島にあります。

左拡大

右拡大

私が23歳位の時に描いていたものです。油絵の具で描いています。日本画家とジャンル分けされるのを大いに嫌い「僕は作家だ。何を使おうがいいではないか・・」など、その頃しょっちゅう言っていました。名刺もただ住所と名前だけしか書かず、「日本画家が油絵の個展をして何が悪い」などなど、憤慨の言葉が多かった記憶があります。当時の世の中は、まだ色々な束縛や思いこみが多く、もしかすると、その中で日々抵抗しながら描いていたのかもしれません。コバルトブルーの味わい深いこの作品は、長い間リビングに掛っていました。 

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